梅雨の伴走

 父が失踪してから、舟が一艘ついてくる。二センチほどの小さな折り紙の青い舟が、いつも果子の視界の右端にいる。
 朝のラジオ番組で梅雨明けは来週末あたりになるでしょうと気象予報士が話していた。梅雨入りしてからもうすぐ一ヶ月経ち薄ら寒いが湿気で息が詰まる。
 中央線の車内は空調の設定のせいか蒸し暑い。上り電車ではいつも進行方向右側のドアの脇に立つ。高架を走る列車の外には武蔵野台地特有の平たい住宅街が広がっている。果子がなるべく遠くを見るのは、乗り物に酔いやすかった子供の頃からの癖だ。並んだ住宅、緑の多いあたりは公園だろうか。目のピントを遠くに合わせていても舟はずっと見えている。線路沿いの架線たわみに沿って、時折緩く上下しながらするする走る。新宿駅に着くと、舟は航路をホームの白線や階段の手すり、自動改札機のフレームやタイルの目地に移しながら果子の右側を律儀に進む。山手線に乗り換えるとまた架線の上。原宿駅では明治神宮の森に突っ込んだがすぐに出てきた。渋谷駅では、舟は人で埋まったホームの向こう、ピカピカして美しい水滴がついた巨大な缶がプリントされたビールの広告の枠に沿って直角に急降下した。

 湿気に抗って大きく息を吐いてから、果子は会社の名前と住所とロゴマークが印刷された封筒に横長のゴム印を押しつける。
「なんで請求書、紙で出さなきゃいけないんですかね。データでいいじゃないですか。」
「だって先方が下さいっていうんだもん。欲しいでしょ、お金ー?ほらほらー! って」
 小さい映像製作会社の長である逢坂さんが過剰にシュンとしてみせるのでこちらが悪いことをしたような雰囲気になる。
「ついでにお昼いってきます」
 さっきまでは階下のコーヒーショップで済ませるつもりだったが、郵便局に行くならその先のインド料理店で豪気にカレー三種盛りを頼んでラッシーも付けようと決めて、デスクにあった書店のビニール袋に財布と携帯電話と請求書の封筒を入れ重い鉄のドアを右肩と左手で押しあける。
 会社は古いビルの一室で、廊下に出ると薄緑色にべったり塗られた最近の建物を基準にすれば小さいドアが並んでいる。廊下はグレー一色で素っ気ないしトイレは各階の廊下端に一つでしかも和式だが、戦後すぐに建てられた当時は日本初の分譲マンションだったらしい。今も生活している住人はいるが、渋谷駅から徒歩三分という利便性から改装して事務所として貸し出している部屋が多い。エレベーターの脇にはポストのような差し込み口が開いていて、住人が郵便物をを入れると一階に集まり、それを郵便局員が集配しにくるという仕組みだったそうだ。果子は各階からストン、ストンと落ちる手紙を想像する。割れ物は厳禁だな。請求書の封筒も落としたかったが、今は差し込み口は接着剤で潰されているし、一階にも管理人は常駐していない。ストン、と一気に三階の高さを落ちてヘタリとエントランスに捨て置かれる「請求書在中」のハンコが押された封筒。想像の中でも舟は右端にいる。封筒の上に乗って御影石のタイルの上をスッと滑る。果子はこのビルの寂しさが好きだ。
 エレベーターの現在位置表示は六階を差しているので待たずに階段で下りる。木製の手すりは建てられてから五三年間の住人の手の脂を吸い込み磨かれてすべすべなので、触りながらの移動がスムーズだ。なだらかな螺旋階段になっている二階から一階へ続く手すりの触り具合が一番よい。もちろん舟は気持ちよさそうに弧を描いた。
 通りに出ると、ノースリーブのシャツから出た二の腕に雨粒を感じたが、そのまま歩いた。雨よりも二の腕の産毛が生えたままなのが気になって少し猫背になる。「あれ?」と誰かが言った。一瞬、父かもしれないと思い総毛立つ。急いで父の声を頭の中で再生して確かめようとするが雨が音を響かなくしている。見回しても知らない人しか見えないので、誰かが自分以外に向けた言葉だろう、と雨をよけるために俯き、進もうとすると果子の顔の角度にあわせて身を低くした知らない男の顔が視線を塞いで目を見開いている。ゴムのような表情筋。ここまで表情をはっきり出す人をあまりみたことがない。
「やっぱり!」
虚を突かれた果子の様子を構わず話続ける男は滑舌が良い。
「あなた! 顔に罪悪感が出ていますよ!」
は、と息が浅く漏れ半歩下がる。男の声は雨と雑踏には吸収されない。
「罪悪感」
しまった、と思う。相手の言ったことを繰り返すのは打ち解けるための技術ではなかったか。案の定、男はうれしそうに深く頷き、果子が下がった半歩を上回る距離を詰めてくる。
 舟はその間、ガードレールのポールの上面の円をくるくるとまわっていた。
「心当たりがおありですね」
果子がさらに一歩下がると背後を歩いていた女性のつま先をわずかに踏んでしまう。
「あ、ごめんなさい」
謝罪の言葉は男の問いにさらに裏付けを与えてしまったようだった。完全に納得した顔で男は果子が何か言うのを待っている。
「えっと、そういうの、興味ないので」
「へえー! なるほど、あなたは自分の内面に興味がおありでない、と」
雨は止む様子がなく、通行人が傘を開く音がいくつも聞こえる。果子は持っている請求書の封筒が塗れないようにビニール袋の口を少し折って腹の辺りに抱えなおし、また一歩下がった。
「あの、ちょっとあのちょっと郵便局に行くので」
男の表情はどんどん輝く。白目が白い。
「ので。 ので? あなたはさっきから結論を言いませんね」
「いやだから…雨がどんどん」
「雨がどんどん降ってきますね。それがなんです」
 気づくと果子の後頭部は壁にあたっていた。ザリザリした感触が髪の毛に絡む。最初は果子を見上げていた男が身を縮めた果子を見下ろす。
「いやほんと、いいです」
「いいんですか? それは話を聞いてもいい ということですか」
「いや文脈からして… 」
「文脈! そういうのが日本人の悪いところですね。 言いたいことははっきり言わなくては伝わりませんよ。 あなたはそうやって文脈や空気を読むことで知らないうちに罪悪感に苛まれて来たんです」
男の「話」がいつの間にか始まっている。
果子の髪の毛の表面には細かい雨粒がびっしり付き、これ以上塗れたら完全に内側までほこり臭い雨が染みてきそうだ。いいかげんその場を立ち去りたかった。対話の良いタイミングをうかがっていたら負けそうで、男の話を遮った。
「罪悪感があったら何なんですか。 あなたに迷惑かけましたか。 日本人全体のことなんて知りませんよ。私はタイガーダイナーのランチを楽しみにしているんです。月曜日はサバのカレーとダールとポークビンダルーです。 他人の楽しみをいきなり奪っておいて説教ですか」
一息に言ってどうにか男と壁の隙間から抜け出す。ちらっと見た男の満足そうなが果子を走らせた。傘を差した人の多い狭い歩道は走りづらい。駅前の継ぎ接ぎの多い道路は段差が激しく、果子の全力疾走は坂を上りきる前に大きくつんのめって止まった。走るのなんて何年ぶりだろう。いきなり酸素を吸い過ぎた気管がヒリヒリする。何でこんなに腹が立つのか知っている。罪悪感ならあるからだ。少し遅れて追いついた舟は舳先がグレーにふやけて、果子の荒れた呼吸に合わせて上下した。
 
 果子の父は勝負が好きだった。野球や、相撲や、マラソン、競馬の中継をテレビで見ながら、スタータイプではない苦労人の贔屓を応援し、良い勝負の時は立ち上がり歓声を上げ、負かされると勝者を辛辣にこき下ろし、時にテーブルを強く叩いた。果子はといえば元来競争というものにどうしても興味が持てず、かけっこの途中で走っている意味が見いだせなくなって歩いてゴールし、運動会を観に来た父をずいぶんとイライラさせた。悔しがるのは辛いことなのに、見ているだけで怖いのに、なぜ父が自分にそれを求めるのか、果子にはさっぱりわからなかった。運動会は、準備期間に飾り付けの紙の花を作るのが好きだった。数枚重ねた薄いピンクの紙を蛇腹状に折って、真ん中をホッチキスでとめたら内側から一枚ずつ立ち上げていくと牡丹のような花びらができる。紙から立体ができる様子が楽しくて、気づいたら必要量の倍以上作ってみせて教師に言われたあきれ半分の「すごいね」で果子は得意になった。準備という名目で誰もいない教室に残っていられるのも良かった。
 贔屓を負かせた力士を貶す大きな声を上げる父を見るのが嫌だった。それはあまりにも気持ちよさそうだった。誰かが負けることを楽しむことの意味が、果子にはやっぱりわからない。父が相撲中継を見始めると、国技館の様子や枡席についてや、向こう正面にいつもいる目立つ服と帽子の人について質問した。果子は勝負以外の部分で父と同じ番組を楽しもうとしたが「ちょっと待って今観てるんだから」と父に遮られ、やっぱり果子にとって勝負は苦しいものだった。父には苦しいと言ったことはない。ただ側で違うものを見ていた。果子が父について思い出そうとすると、出てくるのは父の姿ではなく側にいる気配だ。想像の中で父の輪郭を作ろうとするが果子の持っている材料は目の端にうつった白っぽい老人の肌色とパイル地の部屋着の日光と埃のにおいだけだ。

 ぜい、ぜいと息の上がった果子を通行人はあまり気にしていない。こんなにたくさん傘をさしている人が歩いているのに、その隙間にいる果子にかかる雨は防がれない。
 水が染みて宛名の滲んだ請求書をそのまま郵便局前のポストに投函し、コンビニでタオルとおにぎりを二つ買った。「鮭いくらばくだんおにぎり」と「煮卵」。
 さっきの男に会いたくなかったので、一本裏の道を通り、駅前に出てからぐるっと回って戻ることにする。
 エントランスに管理人が居なくてよかった。集合ポストの脇で髪の毛と肩を拭う。すべすべした手すりを濡らさないように今度はエレベーターに乗った。昼休みは一時間とっていいはずだから、まだ三〇分以上は戻らなくて良い。果子は一番上の「R」のボタンを押し込んだ。
 晴れた日であれば物干し竿に洗濯物がぶら下がっているところだが今日は忘れられた青い針金ハンガーが一つ提がっているだけだ。緑の塗料で塗られた屋上は水はけが悪くゆがんだ部分に水がたまってきていた。エレベーターホールの外にある庇の下に立ってポケットの煙草を探る。箱の端が湿って角の部分が少ししんなりしているけれど煙草自体はかろうじて乾いている。水滴をつけないように手を再度拭ってから摘まんで咥え火をつけた。やはり湿気た味がする。吸い殻を押し込んだ小さい封筒型の型の携帯灰皿の口を閉じてからしつこくぎゅっと握って確実に火を消す。携帯電話の画面を見ると休憩が浸食される気がして、果子はただ緩く波うつ緑色の上を薄く流れる水を眺めた。屋上の端に沿って排水用の溝が切ってあるので、水は出入り口に立つ果子に向かってくる。のっぺりとした緑を覆う薄黒い雨水は透明に光り氷のようでも、油のようでもある。果子は、水面に舟がニ艘いることに気がついた。両方ともがくるくると流れに翻弄され、一直線には進めない。果子が目を凝らして導線を追おうとしても、不意に沈み姿を消し、意外なところから浮上する。雨粒で視界は悪くなり舟と飛沫の見分けも容易ではないのに、果子は片方の舟の上で長い棹を操る人影を見る。五ミリほどの男の顔がはっきりと見えた。
 果子は小さく咳をする。さっき怒鳴った喉が痛い。あのとき果子は、確かに腹を立てていた。そして確実に、向かってきた敵を攻撃することに快感を感じていた。怒鳴り返した自分を誇らしく思い、もっとやり返してやりたかった。果子は気持ちがよかったことが恐ろしくて走ったのだった。のどの奥よりもっと深いところがむずがゆくなる。さらに精一杯大きな咳をした。もう一艘の船頭の顔は見たくなかった。
 果子は屋上とエレベーターホールを隔てるドアを引き、閉めた。ドアは思ったより重く、蝶番は滑らかで、ホールに響いた音は全身に響いた。舟はいまのところドアを抜けては来ない。
 
 

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