不確定日記(波と歯)

不確定日記
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洗濯機を回し始めてから出かけた。ドアを開けたら「僕は波だ!」という声が隣の小学校から聞こえてきた。体育の授業のようで、校庭には旗を持って等間隔に並んだ子供たちが見える。波の気持ちになれという指導のようだ。昨日からのめまいがまだ残っていて視界が不安定なのでみんな波と言われればそうなのかもしれないと思う。天気がとても良かった。

矯正歯科に行って先日撮ったレントゲン写真や歯形を見る。4本抜くことになるが、虫歯を治療して白い被せ物をした歯(治療が高価だったので抜くのはもったいない)と隣の健康な歯(こちらを抜いた方が矯正する際にスムーズ)のどちらを抜くか考えてきてください、と言われる。私の意見は決まっているが一応週明けまで悩んでみることにする。説明が丁寧でうれしい。そのほかに「口腔外科の医師はイケイケが多い」「歯科医はネイルができないから患者のネイルをよく見ている」という知識も得た。

近所の美味しい中華料理店がランチをはじめたらしいとSNSでみかけたので行ってみたら、入り口にとても小さい白い紙が貼ってあり「休み」と書いてあった。帰って洗濯物を干してからネギチヂミを焼いて食べた。ネギがスパッと切れる包丁が欲しいと思うが、歯列矯正を始めたら長く切ったネギは食べづらそうだ。

不確定日記(回転性)

不確定日記
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朝、まだ目を開ける前から世界が回転していた。布団を顔に乗せる癖があるので目を開けても自分の状況がわからない。遊園地で3Dメガネをかけてぐるぐる回され、魔法のホウキに乗って飛んだ気分になるアトラクションを思い出した。そのときにはじめて私はホウキに乗って飛ぶのが好きじゃないということがわかった。
とりあえず自分が布団に寝ていることは分かったし、めまいを起こしているのもわかってきたので、スマートフォンに先ほど見た夢を書き留めてから「寝起き めまい」で検索した。耳石という耳の中のものがあるべき場所ではないところに入ると起きるめまいのようだ。違うかもしれないが多分。右斜めを向くと確実に辺りが回転するのが面白いが気分は悪い。耳石を移動させるための体操というのが出てきたのでやってみる。回転した状態で30秒静止しなくてはいけないのがつらい。このまま回り続けたら医者に行こうと思ったが、絵を描いてみたらまあまあ描けたので仕事をした。1枚描き終わった頃には胃と頭が少しふわふわするものの右を向いても回らなくなった。
昨日からネギチヂミが食べたくて夕方になる前にレシピを検索したけれど、胃が万全ではなさそうなのでスープだけ作ってあとは昨日の煮付けとトマトを食べた。

不確定日記(蝿からか)

不確定日記

 昨日、部屋には蝿がいた。朝窓を開けたら入ってきたらしい。5ミリくらいはあるように見えたし飛び方もふわふわしていなかったのでコバエ ではなくていわゆる「蝿」だった。存在感があるので仕事や家事をしている最中も目に入った。強い感情は湧かなかったので無視していたが、あれをいずれどうにかしなくてはいけないだろうとは思った。はたき落としたり殺虫剤をかける想像もした。それとは別に壁にはアダンソンハエトリがいて、私はそっちのことは積極的に好もしく思っており、見かけない日は少し心配する。前脚を擦り合わせたり跳ねる様子は愛らしい。
 今日、起きたら蝿はいなかった。はたき落とさずに済んでほっとして、ただやりすごしてしまったことにわずかに傷つく。

 2026年に日本でパニックが起こるSF小説を読んでいたら2020年にはオリンピックが開催された様子で、書かれた数年前に想像されたリアリティが迷子になった先で私は寝転がってこれを読んでいるのだなと思った。ニュースを見るとやってらんないな、と思うが私はなにをやってもいない。背中にニキビができたので背中を洗うブラシを検索し、非常によいと噂の商品を見つけたが、入手困難なうえにウェブサイトに載っている店舗が入っている商業施設はどこも非常事態宣言にともなう臨時休業だった。手の届かない肩甲骨の間は指先で引っ掻くことしかできない。タオルで洗えばいいがそうしない理由はいままでもそうしていなかったからだ。

 スーパーには初夏の野菜が並んで美しかった。ピーマンとトマトの大袋を買う。夕食にはカレイの煮付け、焼きなすにすだち汁を和えたもの、トマトと実山椒、残り物の味噌汁と冷凍ごはん。

梅雨の伴走

 父が失踪してから、舟が一艘ついてくる。二センチほどの小さな折り紙の青い舟が、いつも果子の視界の右端にいる。
 朝のラジオ番組で梅雨明けは来週末あたりになるでしょうと気象予報士が話していた。梅雨入りしてからもうすぐ一ヶ月経ち薄ら寒いが湿気で息が詰まる。
 中央線の車内は空調の設定のせいか蒸し暑い。上り電車ではいつも進行方向右側のドアの脇に立つ。高架を走る列車の外には武蔵野台地特有の平たい住宅街が広がっている。果子がなるべく遠くを見るのは、乗り物に酔いやすかった子供の頃からの癖だ。並んだ住宅、緑の多いあたりは公園だろうか。目のピントを遠くに合わせていても舟はずっと見えている。線路沿いの架線たわみに沿って、時折緩く上下しながらするする走る。新宿駅に着くと、舟は航路をホームの白線や階段の手すり、自動改札機のフレームやタイルの目地に移しながら果子の右側を律儀に進む。山手線に乗り換えるとまた架線の上。原宿駅では明治神宮の森に突っ込んだがすぐに出てきた。渋谷駅では、舟は人で埋まったホームの向こう、ピカピカして美しい水滴がついた巨大な缶がプリントされたビールの広告の枠に沿って直角に急降下した。

 湿気に抗って大きく息を吐いてから、果子は会社の名前と住所とロゴマークが印刷された封筒に横長のゴム印を押しつける。
「なんで請求書、紙で出さなきゃいけないんですかね。データでいいじゃないですか。」
「だって先方が下さいっていうんだもん。欲しいでしょ、お金ー?ほらほらー! って」
 小さい映像製作会社の長である逢坂さんが過剰にシュンとしてみせるのでこちらが悪いことをしたような雰囲気になる。
「ついでにお昼いってきます」
 さっきまでは階下のコーヒーショップで済ませるつもりだったが、郵便局に行くならその先のインド料理店で豪気にカレー三種盛りを頼んでラッシーも付けようと決めて、デスクにあった書店のビニール袋に財布と携帯電話と請求書の封筒を入れ重い鉄のドアを右肩と左手で押しあける。
 会社は古いビルの一室で、廊下に出ると薄緑色にべったり塗られた最近の建物を基準にすれば小さいドアが並んでいる。廊下はグレー一色で素っ気ないしトイレは各階の廊下端に一つでしかも和式だが、戦後すぐに建てられた当時は日本初の分譲マンションだったらしい。今も生活している住人はいるが、渋谷駅から徒歩三分という利便性から改装して事務所として貸し出している部屋が多い。エレベーターの脇にはポストのような差し込み口が開いていて、住人が郵便物をを入れると一階に集まり、それを郵便局員が集配しにくるという仕組みだったそうだ。果子は各階からストン、ストンと落ちる手紙を想像する。割れ物は厳禁だな。請求書の封筒も落としたかったが、今は差し込み口は接着剤で潰されているし、一階にも管理人は常駐していない。ストン、と一気に三階の高さを落ちてヘタリとエントランスに捨て置かれる「請求書在中」のハンコが押された封筒。想像の中でも舟は右端にいる。封筒の上に乗って御影石のタイルの上をスッと滑る。果子はこのビルの寂しさが好きだ。
 エレベーターの現在位置表示は六階を差しているので待たずに階段で下りる。木製の手すりは建てられてから五三年間の住人の手の脂を吸い込み磨かれてすべすべなので、触りながらの移動がスムーズだ。なだらかな螺旋階段になっている二階から一階へ続く手すりの触り具合が一番よい。もちろん舟は気持ちよさそうに弧を描いた。
 通りに出ると、ノースリーブのシャツから出た二の腕に雨粒を感じたが、そのまま歩いた。雨よりも二の腕の産毛が生えたままなのが気になって少し猫背になる。「あれ?」と誰かが言った。一瞬、父かもしれないと思い総毛立つ。急いで父の声を頭の中で再生して確かめようとするが雨が音を響かなくしている。見回しても知らない人しか見えないので、誰かが自分以外に向けた言葉だろう、と雨をよけるために俯き、進もうとすると果子の顔の角度にあわせて身を低くした知らない男の顔が視線を塞いで目を見開いている。ゴムのような表情筋。ここまで表情をはっきり出す人をあまりみたことがない。
「やっぱり!」
虚を突かれた果子の様子を構わず話続ける男は滑舌が良い。
「あなた! 顔に罪悪感が出ていますよ!」
は、と息が浅く漏れ半歩下がる。男の声は雨と雑踏には吸収されない。
「罪悪感」
しまった、と思う。相手の言ったことを繰り返すのは打ち解けるための技術ではなかったか。案の定、男はうれしそうに深く頷き、果子が下がった半歩を上回る距離を詰めてくる。
 舟はその間、ガードレールのポールの上面の円をくるくるとまわっていた。
「心当たりがおありですね」
果子がさらに一歩下がると背後を歩いていた女性のつま先をわずかに踏んでしまう。
「あ、ごめんなさい」
謝罪の言葉は男の問いにさらに裏付けを与えてしまったようだった。完全に納得した顔で男は果子が何か言うのを待っている。
「えっと、そういうの、興味ないので」
「へえー! なるほど、あなたは自分の内面に興味がおありでない、と」
雨は止む様子がなく、通行人が傘を開く音がいくつも聞こえる。果子は持っている請求書の封筒が塗れないようにビニール袋の口を少し折って腹の辺りに抱えなおし、また一歩下がった。
「あの、ちょっとあのちょっと郵便局に行くので」
男の表情はどんどん輝く。白目が白い。
「ので。 ので? あなたはさっきから結論を言いませんね」
「いやだから…雨がどんどん」
「雨がどんどん降ってきますね。それがなんです」
 気づくと果子の後頭部は壁にあたっていた。ザリザリした感触が髪の毛に絡む。最初は果子を見上げていた男が身を縮めた果子を見下ろす。
「いやほんと、いいです」
「いいんですか? それは話を聞いてもいい ということですか」
「いや文脈からして… 」
「文脈! そういうのが日本人の悪いところですね。 言いたいことははっきり言わなくては伝わりませんよ。 あなたはそうやって文脈や空気を読むことで知らないうちに罪悪感に苛まれて来たんです」
男の「話」がいつの間にか始まっている。
果子の髪の毛の表面には細かい雨粒がびっしり付き、これ以上塗れたら完全に内側までほこり臭い雨が染みてきそうだ。いいかげんその場を立ち去りたかった。対話の良いタイミングをうかがっていたら負けそうで、男の話を遮った。
「罪悪感があったら何なんですか。 あなたに迷惑かけましたか。 日本人全体のことなんて知りませんよ。私はタイガーダイナーのランチを楽しみにしているんです。月曜日はサバのカレーとダールとポークビンダルーです。 他人の楽しみをいきなり奪っておいて説教ですか」
一息に言ってどうにか男と壁の隙間から抜け出す。ちらっと見た男の満足そうなが果子を走らせた。傘を差した人の多い狭い歩道は走りづらい。駅前の継ぎ接ぎの多い道路は段差が激しく、果子の全力疾走は坂を上りきる前に大きくつんのめって止まった。走るのなんて何年ぶりだろう。いきなり酸素を吸い過ぎた気管がヒリヒリする。何でこんなに腹が立つのか知っている。罪悪感ならあるからだ。少し遅れて追いついた舟は舳先がグレーにふやけて、果子の荒れた呼吸に合わせて上下した。
 
 果子の父は勝負が好きだった。野球や、相撲や、マラソン、競馬の中継をテレビで見ながら、スタータイプではない苦労人の贔屓を応援し、良い勝負の時は立ち上がり歓声を上げ、負かされると勝者を辛辣にこき下ろし、時にテーブルを強く叩いた。果子はといえば元来競争というものにどうしても興味が持てず、かけっこの途中で走っている意味が見いだせなくなって歩いてゴールし、運動会を観に来た父をずいぶんとイライラさせた。悔しがるのは辛いことなのに、見ているだけで怖いのに、なぜ父が自分にそれを求めるのか、果子にはさっぱりわからなかった。運動会は、準備期間に飾り付けの紙の花を作るのが好きだった。数枚重ねた薄いピンクの紙を蛇腹状に折って、真ん中をホッチキスでとめたら内側から一枚ずつ立ち上げていくと牡丹のような花びらができる。紙から立体ができる様子が楽しくて、気づいたら必要量の倍以上作ってみせて教師に言われたあきれ半分の「すごいね」で果子は得意になった。準備という名目で誰もいない教室に残っていられるのも良かった。
 贔屓を負かせた力士を貶す大きな声を上げる父を見るのが嫌だった。それはあまりにも気持ちよさそうだった。誰かが負けることを楽しむことの意味が、果子にはやっぱりわからない。父が相撲中継を見始めると、国技館の様子や枡席についてや、向こう正面にいつもいる目立つ服と帽子の人について質問した。果子は勝負以外の部分で父と同じ番組を楽しもうとしたが「ちょっと待って今観てるんだから」と父に遮られ、やっぱり果子にとって勝負は苦しいものだった。父には苦しいと言ったことはない。ただ側で違うものを見ていた。果子が父について思い出そうとすると、出てくるのは父の姿ではなく側にいる気配だ。想像の中で父の輪郭を作ろうとするが果子の持っている材料は目の端にうつった白っぽい老人の肌色とパイル地の部屋着の日光と埃のにおいだけだ。

 ぜい、ぜいと息の上がった果子を通行人はあまり気にしていない。こんなにたくさん傘をさしている人が歩いているのに、その隙間にいる果子にかかる雨は防がれない。
 水が染みて宛名の滲んだ請求書をそのまま郵便局前のポストに投函し、コンビニでタオルとおにぎりを二つ買った。「鮭いくらばくだんおにぎり」と「煮卵」。
 さっきの男に会いたくなかったので、一本裏の道を通り、駅前に出てからぐるっと回って戻ることにする。
 エントランスに管理人が居なくてよかった。集合ポストの脇で髪の毛と肩を拭う。すべすべした手すりを濡らさないように今度はエレベーターに乗った。昼休みは一時間とっていいはずだから、まだ三〇分以上は戻らなくて良い。果子は一番上の「R」のボタンを押し込んだ。
 晴れた日であれば物干し竿に洗濯物がぶら下がっているところだが今日は忘れられた青い針金ハンガーが一つ提がっているだけだ。緑の塗料で塗られた屋上は水はけが悪くゆがんだ部分に水がたまってきていた。エレベーターホールの外にある庇の下に立ってポケットの煙草を探る。箱の端が湿って角の部分が少ししんなりしているけれど煙草自体はかろうじて乾いている。水滴をつけないように手を再度拭ってから摘まんで咥え火をつけた。やはり湿気た味がする。吸い殻を押し込んだ小さい封筒型の型の携帯灰皿の口を閉じてからしつこくぎゅっと握って確実に火を消す。携帯電話の画面を見ると休憩が浸食される気がして、果子はただ緩く波うつ緑色の上を薄く流れる水を眺めた。屋上の端に沿って排水用の溝が切ってあるので、水は出入り口に立つ果子に向かってくる。のっぺりとした緑を覆う薄黒い雨水は透明に光り氷のようでも、油のようでもある。果子は、水面に舟がニ艘いることに気がついた。両方ともがくるくると流れに翻弄され、一直線には進めない。果子が目を凝らして導線を追おうとしても、不意に沈み姿を消し、意外なところから浮上する。雨粒で視界は悪くなり舟と飛沫の見分けも容易ではないのに、果子は片方の舟の上で長い棹を操る人影を見る。五ミリほどの男の顔がはっきりと見えた。
 果子は小さく咳をする。さっき怒鳴った喉が痛い。あのとき果子は、確かに腹を立てていた。そして確実に、向かってきた敵を攻撃することに快感を感じていた。怒鳴り返した自分を誇らしく思い、もっとやり返してやりたかった。果子は気持ちがよかったことが恐ろしくて走ったのだった。のどの奥よりもっと深いところがむずがゆくなる。さらに精一杯大きな咳をした。もう一艘の船頭の顔は見たくなかった。
 果子は屋上とエレベーターホールを隔てるドアを引き、閉めた。ドアは思ったより重く、蝶番は滑らかで、ホールに響いた音は全身に響いた。舟はいまのところドアを抜けては来ない。
 
 

肩幅

「ランバーロール03」というリトルプレスに寄稿した「肩」という短編漫画の元にした自作の短編小説です。漫画にするときに変えた部分(大きいところでは人称とか)や省いた部分もあるので、併せてお楽しみいただければ。

 ランチ寿司はセットになってるタイプで助かった。果子(かこ)はひんやりしたおしぼりを広げながら思った。父が行方不明だ、という話をするときに、お好み寿司をおごってもらうのは精神的な負担が大きすぎる。こんな話をしているときに雲丹やら穴子でもないだろう、とか、なのにどうせならイクラも、なんて思ってしまうことの煩わしさとか。虎子(ここ)伯母さんは果子の希望を一切訊かず、待ち合わせ場所にこの店を指定した。
「それじゃ、居なくなってどれくらい経つかもわかんないの?」
「はっきりは…いや、うん。連絡、そんなにしないから。月一とか。」
「だめよ気にしとかないと、妻が死ぬと男って一気に弱るんだから。」
魚偏の漢字がびっしり並んだ湯飲みは分厚くて大きいので両手で持つ。
「とにかく警察に言いなさいよ。失踪でしょうに。それは。果子ちゃんはほんと、ふわっとしてるっていうか、マイペース。」
「やっぱりそうだよね。」
果子は左の掌をゆっくりテーブルの下に隠す。
「こういうのって、どこの警察に言ってもいいのかな。この下の駅の交番とか。」
「あー、考えたことなかったわ。でもやっぱり、居なくなった場所の近くなんじゃないの。管轄がさ、あるでしょう。ドラマとかで言うじゃない。所轄がどうしたとか。」
デザートには小さなゆずシャーベットが出た。

  新宿駅の西口に直結している小田急デパートの十二階は静かだ。真下に見えるロータリーは羊の角のように左右対称にカーブして、真上から見た自動車は車輪が見えないからか動きが滑らかな気がする。大きなガラス窓に手を触れそうになってやめた果子の左の掌にはマジックで「捜索願」と書いてあった。インターネットで検索したら、こういうときは「失踪届」ではなく、まずは「捜索願」だと書いてあったのだ。警察署に着くまでにトイレで手を洗っておかなければ。
「果子ちゃん、なにやってんの。」
果子があとを着いてこなかったことに気づいた虎子伯母さんはほんの少しだけ上体をこちらに傾げてのぞき込むように急かす。
「んー、ちょっと…えっとトイレ行ってから行く。」
「そうなの?ちゃんと行くのよ。」
果子は今年二十八歳になるが、小学生に言い含めるような口調に合わせて小さく右手を振った。
「うん。じゃあね。」

 虎子伯母さんは天井からさがっている表示板のエスカレーターとエレベーターのピクトグラムを見比べて、エレベーターの方に向かう。果子はもう一度窓の下を見て、ロータリーを上ってくる黄色いタクシーを眺めた。虎子伯母さんはスナックとお好み焼き屋とワインバーを経営していて、いつも忙しい。果子と顔を合わせるのは年に一度ほどだから親しい間柄でもないが、親戚だという認識だけでお互い敬語を使わない。伯母さんなら、警察署にも迷いなくずんずん入っていけそうな気がする。一緒に行ってくれることをほのかに期待していたが、伯母さんには言葉で言わない限りなにも伝わらない。果子はエスカレーターでゆっくり降りた。地下一階まで降り駅の通路に出ると、デパートの中のひやりとした静けさから、大量の人が作り出す蒸し暑さに変わる。

  果子は人混みが嫌いではない。大勢の人がいて寂しくないし、それぞれが違う目的で動いているので、こちらも自由にしていていい。学生が多い街は小さなグループがいくつもふわふわと歩き、オフィス街は行き先をすでに持った人たちが直線的に進む。歓楽街は店を物色する人と待ちかまえて勧誘する人が相まって流れには緩急がある。ターミナル駅はとくに複雑だ。慣れていない旅行者は大きなスーツケースを持て余して唐突に立ち尽くすし、遅刻しそうで周りが見えない人もいる。だから果子はことさら気をつけて、早くも遅くもないスピードで歩き、注意深く表示と人を両方見て進む。平日の昼間にこんなところに居るのが不思議だ。父が失踪しまして、と言うのはどうも嘘っぽい気がして、会社には急性胃腸炎、という連絡をした。そちらのほうが嘘なので、余計に後ろめたい。

  大江戸線のホームは駅の南側の地下深くにあるから、西口からだと地下道をぬけて南口まで行くのが近いが、果子は一度表に出た。さっき見下ろしたロータリーの外側の端に喫煙所がある。植木で区切られたスペースには人が入りきらず、皆が遠くの灰皿を向きながら、歩道の空いたスペースに身を置く。当然煙くて居心地は良くないが、果子はとにかく少しでも時間を引き延ばしたかった。角のつぶれた紙箱を取り出し、一本咥えてからさらに鞄を探ってライターを見つけ、火をつける。ほんの少し、指先の感覚がぎこちない。ロータリーの端には壊れたカセットテープのような声で、意味はとれないが政治的な不満を大音量で流している軽自動車が停まっている。喫煙所の人々は頑なに灰皿の方向を向き続ける。

  果子の父は、歯を磨いていたらしい。果子も大学を卒業するまで住んでいた父の家は江古田にある。がっしりした煉瓦張りマンションの一階で小さな庭もついている。四十年あまりも人が暮らし続けた室内は捨てられないものや、もはや長いことそこにありすぎて誰も意識しないものが薄く積み重なり、特有の茶色い統一感がある。三年前に亡くなった母の趣味だったトールペイントの飾り物、父母の結婚当初の流行だったのであろう籐の電話台、カラーボックスに画鋲で留めた目隠しのゴブラン織り、だれも開いたことのない百科事典。死んでしまった猫の餌用の木のボウル。

  洗面所は十数年前に一度リフォームしているが、果子は安物の量産品といった風情があまり好きではない。「ここにコンセントがあって便利だ。」と父はしきりに言い、そこに何か差したいが故に電動歯ブラシを買って、それも自慢した。
「歯はすべての病気の元っていうからな。」
その電動歯ブラシも、もうだいぶ型の古いものだ。

  その日果子は、アルバムを見るためにその家に寄った。鍵は持っているのでチャイムは鳴らさずドアを開ける。暮らしていた時には気付かなかった、有機的なにおいがして、安心するような、拒まれているような気持ちになったのを覚えている。茶の間に続く廊下の脇にある洗面所から電動歯ブラシの音がした。「とうちゃん?」洗面所の扉は果子が知る限りいつでも開いている。やたらたくさんあるタオルが辜あがった棚の向こうには当然父のむっくりとした背中を想像したが、そこにはシンクの上でブルブル震え続ける歯ブラシだけがあった。父の歯ブラシを果子は触ったことがなかったので、スイッチの位置がわからずしばらく震える歯ブラシを手に持ってぐるぐる回す。ブラシの部分は乾いていた。

  居なくなってからの時間は、歯ブラシの充電が切れない範囲だとは思う、ということを、果子は警察でうまく説明できる気がしない。

  人と人の間をすり抜けるとき、果子はいつも猫の為の出入り口を思い出す。小さい四角形を、思ったよりも大きい猫がぬるりと通り抜ける。「猫は顔の幅があればどんな隙間も通れるんだって。」果子が得意げに披露した雑学を父は挑戦だと受け取った。飼っていたカナという長毛種とミケの雑種猫の顔の幅を、嫌がられながら丁寧に測り、ちょうど顔の幅の正方形の扉を作ったのだ。いささか意地悪な父の挑戦をカナは簡単に突破した。元々狭いところの好きな猫でもあり、簡単にするりと抜けて見せた。問題は父が猫用の扉を作った位置で、そこは父の書斎と廊下を区切る扉の下部だったので、父は読書や書き物中にカナに存分に邪魔をされることになった。人が読んでいるのものの上を選んで寝そべりたがるカナをフカフカと触りながら、父はいつも「おまえはずるいよなあ。」と言った。

  父はいつも肩幅の広いことを気にしていた。スポーツの経験はなく、読書や将棋を好む質なのに体格が良く、子供の時分からの近眼で眉間に皺を寄せる癖がつき目つきが悪くみられることもあり、なにかというと怖そうに見られることが多いのだとこぼし、「いいなあ、華奢で。」と羨ましがるので、果子は父の前では肩が出る服を選ばなくなった。

  残暑とはいえ屋外はまだ蒸し暑く、冷房除けのカーディガンを鞄に押し込む。果子は煙草を二本吸って、ようやく歩き出した。再び駅の構内に入り、階段で地下に降りる。地下ではあるがロータリーの下側にあたるので吹き抜け状になっており、外と中の間の暗いタイル張りの空間には土鳩がバサバサと入り込む。飲食店街でシュークリームを売る店のフリルのついたエプロンをつけた女性が、素早く足を踏みならして鳩を追い払った。

  果子の歩調はどんどん鈍くなっていた。まず、警察署というものに入ったことがない。区役所みたいに受付け窓口があって番号の印刷されたレシートみたいな紙をくれるのか。それとも、入り口の脇に棒を持って立っている警官が受付けなのか。担当者にきちんと会えたとして、父が失踪したことを、信じてもらえるのだろうか。武器を常に持っている人に、面倒くさそうな反応をされてもきちんと話ができるだろうか。行ってみればどうにかなるわよ、と虎子おばさんなら言うだろう。  

 地下道の両脇には飲食店が並ぶ。ハンバーガー店には「二十九日は肉の日」という大きな垂れ幕。先へ進みたくない気持ちで周りの文字がより目に入ってくる。「半額クーポン」「令和の時代をおいしく彩る」「宝くじ付きコーヒーチケット」感情と関係のない文字をなるべくたくさん読もうとするけれど、ジー、と電動歯ブラシの振動はまだ指の腹に残っている。

  どん、と右肩に何かが当たった。衝撃で半身が後ろへ回る。まず謝ったのは、そのせいで行く先を塞いでしまった後ろの通行人にだった。「ちっ」と舌打ちが聞こえる。自然に出たにしてはわざとらしいほどに大きな声。肩を怒らせたグレーの男が、果子の顔をじっと見ている。ああ、この人とぶつかったのか、と気づくのが遅れ、ぼんやり相手の顔を見ると、男は前に進みながらも顔だけをずっと果子の方に向けている。縞のTシャツにグレーのスラックス。黒いリュックサックには何かがパンパンに詰まり、そのうえさらにストラップの短いショルダーバッグを斜めがけしている。果子の方が少し背が高いが、男はチラとも視線を外さないので気圧される。耐えきれず目をそらすと、男は再度大きな舌打ちをして早足で去った。ようやく腹が立ってきて、叫ぼうかと思ったがこういうときの発声の仕方がわからない。身体中の水分が表面に上がってくるのがわかる。ノースリーブのカットソーから出たむき出しの肩が痛かった。今日は絶対に父に会わないだろう、と果子は今朝そう思って服を選んだ。