梅雨の伴走

 父が失踪してから、舟が一艘ついてくる。二センチほどの小さな折り紙の青い舟が、いつも果子の視界の右端にいる。
 朝のラジオ番組で梅雨明けは来週末あたりになるでしょうと気象予報士が話していた。梅雨入りしてからもうすぐ一ヶ月経ち薄ら寒いが湿気で息が詰まる。
 中央線の車内は空調の設定のせいか蒸し暑い。上り電車ではいつも進行方向右側のドアの脇に立つ。高架を走る列車の外には武蔵野台地特有の平たい住宅街が広がっている。果子がなるべく遠くを見るのは、乗り物に酔いやすかった子供の頃からの癖だ。並んだ住宅、緑の多いあたりは公園だろうか。目のピントを遠くに合わせていても舟はずっと見えている。線路沿いの架線たわみに沿って、時折緩く上下しながらするする走る。新宿駅に着くと、舟は航路をホームの白線や階段の手すり、自動改札機のフレームやタイルの目地に移しながら果子の右側を律儀に進む。山手線に乗り換えるとまた架線の上。原宿駅では明治神宮の森に突っ込んだがすぐに出てきた。渋谷駅では、舟は人で埋まったホームの向こう、ピカピカして美しい水滴がついた巨大な缶がプリントされたビールの広告の枠に沿って直角に急降下した。

肩幅

「ランバーロール03」というリトルプレスに寄稿した「肩」という短編漫画の元にした自作の短編小説です。漫画にするときに変えた部分(大きいところでは人称とか)や省いた部分もあるので、併せてお楽しみいただければ。

 ランチ寿司はセットになってるタイプで助かった。果子(かこ)はひんやりしたおしぼりを広げながら思った。父が行方不明だ、という話をするときに、お好み寿司をおごってもらうのは精神的な負担が大きすぎる。こんな話をしているときに雲丹やら穴子でもないだろう、とか、なのにどうせならイクラも、なんて思ってしまうことの煩わしさとか。虎子(ここ)伯母さんは果子の希望を一切訊かず、待ち合わせ場所にこの店を指定した。
「それじゃ、居なくなってどれくらい経つかもわかんないの?」
「はっきりは…いや、うん。連絡、そんなにしないから。月一とか。」
「だめよ気にしとかないと、妻が死ぬと男って一気に弱るんだから。」
魚偏の漢字がびっしり並んだ湯飲みは分厚くて大きいので両手で持つ。
「とにかく警察に言いなさいよ。失踪でしょうに。それは。果子ちゃんはほんと、ふわっとしてるっていうか、マイペース。」
「やっぱりそうだよね。」
果子は左の掌をゆっくりテーブルの下に隠す。
「こういうのって、どこの警察に言ってもいいのかな。この下の駅の交番とか。」
「あー、考えたことなかったわ。でもやっぱり、居なくなった場所の近くなんじゃないの。管轄がさ、あるでしょう。ドラマとかで言うじゃない。所轄がどうしたとか。」
デザートには小さなゆずシャーベットが出た。

  新宿駅の西口に直結している小田急デパートの十二階は静かだ。真下に見えるロータリーは羊の角のように左右対称にカーブして、真上から見た自動車は車輪が見えないからか動きが滑らかな気がする。大きなガラス窓に手を触れそうになってやめた果子の左の掌にはマジックで「捜索願」と書いてあった。インターネットで検索したら、こういうときは「失踪届」ではなく、まずは「捜索願」だと書いてあったのだ。警察署に着くまでにトイレで手を洗っておかなければ。
「果子ちゃん、なにやってんの。」
果子があとを着いてこなかったことに気づいた虎子伯母さんはほんの少しだけ上体をこちらに傾げてのぞき込むように急かす。
「んー、ちょっと…えっとトイレ行ってから行く。」
「そうなの?ちゃんと行くのよ。」
果子は今年二十八歳になるが、小学生に言い含めるような口調に合わせて小さく右手を振った。
「うん。じゃあね。」

 虎子伯母さんは天井からさがっている表示板のエスカレーターとエレベーターのピクトグラムを見比べて、エレベーターの方に向かう。果子はもう一度窓の下を見て、ロータリーを上ってくる黄色いタクシーを眺めた。虎子伯母さんはスナックとお好み焼き屋とワインバーを経営していて、いつも忙しい。果子と顔を合わせるのは年に一度ほどだから親しい間柄でもないが、親戚だという認識だけでお互い敬語を使わない。伯母さんなら、警察署にも迷いなくずんずん入っていけそうな気がする。一緒に行ってくれることをほのかに期待していたが、伯母さんには言葉で言わない限りなにも伝わらない。果子はエスカレーターでゆっくり降りた。地下一階まで降り駅の通路に出ると、デパートの中のひやりとした静けさから、大量の人が作り出す蒸し暑さに変わる。

  果子は人混みが嫌いではない。大勢の人がいて寂しくないし、それぞれが違う目的で動いているので、こちらも自由にしていていい。学生が多い街は小さなグループがいくつもふわふわと歩き、オフィス街は行き先をすでに持った人たちが直線的に進む。歓楽街は店を物色する人と待ちかまえて勧誘する人が相まって流れには緩急がある。ターミナル駅はとくに複雑だ。慣れていない旅行者は大きなスーツケースを持て余して唐突に立ち尽くすし、遅刻しそうで周りが見えない人もいる。だから果子はことさら気をつけて、早くも遅くもないスピードで歩き、注意深く表示と人を両方見て進む。平日の昼間にこんなところに居るのが不思議だ。父が失踪しまして、と言うのはどうも嘘っぽい気がして、会社には急性胃腸炎、という連絡をした。そちらのほうが嘘なので、余計に後ろめたい。

  大江戸線のホームは駅の南側の地下深くにあるから、西口からだと地下道をぬけて南口まで行くのが近いが、果子は一度表に出た。さっき見下ろしたロータリーの外側の端に喫煙所がある。植木で区切られたスペースには人が入りきらず、皆が遠くの灰皿を向きながら、歩道の空いたスペースに身を置く。当然煙くて居心地は良くないが、果子はとにかく少しでも時間を引き延ばしたかった。角のつぶれた紙箱を取り出し、一本咥えてからさらに鞄を探ってライターを見つけ、火をつける。ほんの少し、指先の感覚がぎこちない。ロータリーの端には壊れたカセットテープのような声で、意味はとれないが政治的な不満を大音量で流している軽自動車が停まっている。喫煙所の人々は頑なに灰皿の方向を向き続ける。

  果子の父は、歯を磨いていたらしい。果子も大学を卒業するまで住んでいた父の家は江古田にある。がっしりした煉瓦張りマンションの一階で小さな庭もついている。四十年あまりも人が暮らし続けた室内は捨てられないものや、もはや長いことそこにありすぎて誰も意識しないものが薄く積み重なり、特有の茶色い統一感がある。三年前に亡くなった母の趣味だったトールペイントの飾り物、父母の結婚当初の流行だったのであろう籐の電話台、カラーボックスに画鋲で留めた目隠しのゴブラン織り、だれも開いたことのない百科事典。死んでしまった猫の餌用の木のボウル。

  洗面所は十数年前に一度リフォームしているが、果子は安物の量産品といった風情があまり好きではない。「ここにコンセントがあって便利だ。」と父はしきりに言い、そこに何か差したいが故に電動歯ブラシを買って、それも自慢した。
「歯はすべての病気の元っていうからな。」
その電動歯ブラシも、もうだいぶ型の古いものだ。

  その日果子は、アルバムを見るためにその家に寄った。鍵は持っているのでチャイムは鳴らさずドアを開ける。暮らしていた時には気付かなかった、有機的なにおいがして、安心するような、拒まれているような気持ちになったのを覚えている。茶の間に続く廊下の脇にある洗面所から電動歯ブラシの音がした。「とうちゃん?」洗面所の扉は果子が知る限りいつでも開いている。やたらたくさんあるタオルが辜あがった棚の向こうには当然父のむっくりとした背中を想像したが、そこにはシンクの上でブルブル震え続ける歯ブラシだけがあった。父の歯ブラシを果子は触ったことがなかったので、スイッチの位置がわからずしばらく震える歯ブラシを手に持ってぐるぐる回す。ブラシの部分は乾いていた。

  居なくなってからの時間は、歯ブラシの充電が切れない範囲だとは思う、ということを、果子は警察でうまく説明できる気がしない。

  人と人の間をすり抜けるとき、果子はいつも猫の為の出入り口を思い出す。小さい四角形を、思ったよりも大きい猫がぬるりと通り抜ける。「猫は顔の幅があればどんな隙間も通れるんだって。」果子が得意げに披露した雑学を父は挑戦だと受け取った。飼っていたカナという長毛種とミケの雑種猫の顔の幅を、嫌がられながら丁寧に測り、ちょうど顔の幅の正方形の扉を作ったのだ。いささか意地悪な父の挑戦をカナは簡単に突破した。元々狭いところの好きな猫でもあり、簡単にするりと抜けて見せた。問題は父が猫用の扉を作った位置で、そこは父の書斎と廊下を区切る扉の下部だったので、父は読書や書き物中にカナに存分に邪魔をされることになった。人が読んでいるのものの上を選んで寝そべりたがるカナをフカフカと触りながら、父はいつも「おまえはずるいよなあ。」と言った。

  父はいつも肩幅の広いことを気にしていた。スポーツの経験はなく、読書や将棋を好む質なのに体格が良く、子供の時分からの近眼で眉間に皺を寄せる癖がつき目つきが悪くみられることもあり、なにかというと怖そうに見られることが多いのだとこぼし、「いいなあ、華奢で。」と羨ましがるので、果子は父の前では肩が出る服を選ばなくなった。

  残暑とはいえ屋外はまだ蒸し暑く、冷房除けのカーディガンを鞄に押し込む。果子は煙草を二本吸って、ようやく歩き出した。再び駅の構内に入り、階段で地下に降りる。地下ではあるがロータリーの下側にあたるので吹き抜け状になっており、外と中の間の暗いタイル張りの空間には土鳩がバサバサと入り込む。飲食店街でシュークリームを売る店のフリルのついたエプロンをつけた女性が、素早く足を踏みならして鳩を追い払った。

  果子の歩調はどんどん鈍くなっていた。まず、警察署というものに入ったことがない。区役所みたいに受付け窓口があって番号の印刷されたレシートみたいな紙をくれるのか。それとも、入り口の脇に棒を持って立っている警官が受付けなのか。担当者にきちんと会えたとして、父が失踪したことを、信じてもらえるのだろうか。武器を常に持っている人に、面倒くさそうな反応をされてもきちんと話ができるだろうか。行ってみればどうにかなるわよ、と虎子おばさんなら言うだろう。  

 地下道の両脇には飲食店が並ぶ。ハンバーガー店には「二十九日は肉の日」という大きな垂れ幕。先へ進みたくない気持ちで周りの文字がより目に入ってくる。「半額クーポン」「令和の時代をおいしく彩る」「宝くじ付きコーヒーチケット」感情と関係のない文字をなるべくたくさん読もうとするけれど、ジー、と電動歯ブラシの振動はまだ指の腹に残っている。

  どん、と右肩に何かが当たった。衝撃で半身が後ろへ回る。まず謝ったのは、そのせいで行く先を塞いでしまった後ろの通行人にだった。「ちっ」と舌打ちが聞こえる。自然に出たにしてはわざとらしいほどに大きな声。肩を怒らせたグレーの男が、果子の顔をじっと見ている。ああ、この人とぶつかったのか、と気づくのが遅れ、ぼんやり相手の顔を見ると、男は前に進みながらも顔だけをずっと果子の方に向けている。縞のTシャツにグレーのスラックス。黒いリュックサックには何かがパンパンに詰まり、そのうえさらにストラップの短いショルダーバッグを斜めがけしている。果子の方が少し背が高いが、男はチラとも視線を外さないので気圧される。耐えきれず目をそらすと、男は再度大きな舌打ちをして早足で去った。ようやく腹が立ってきて、叫ぼうかと思ったがこういうときの発声の仕方がわからない。身体中の水分が表面に上がってくるのがわかる。ノースリーブのカットソーから出たむき出しの肩が痛かった。今日は絶対に父に会わないだろう、と果子は今朝そう思って服を選んだ。