不確定日記(金気とともに)

 上の歯に矯正器具がついた。歯科医院で付けられている最中にどんな作業がされているのか見たくて、ライトの銀色の部分に反射していないか目を凝らしたが、すりガラスのような処理がされておりうっすらとしか見えなかった。歯科医は「なんか違う気がするなあ」などと言いながらブラケット(ワイヤーを固定するための四角いパーツ)を歯の上に置いているので割と感覚頼りのようだった。接着剤は苦かった。パーツを置いてUVライトで固めたので、ジェルネイル に似ていると思った。「痛くなるのは明日の朝くらいです」と言われたのでソワソワして過ごした。どの程度のものが食べられるかわからなかったが、右の一番奥にはまだ装置をつけていないので、その辺りで噛めば柔らかいものなら大丈夫そうだった。オートミールをバターライス風にして、蒸した鱈と一緒に食べた。

 その後数日経ち、痛みは噛んでいる時意外あまりないが、常に唇の内側に金属が付いているな、という感じがある。顔を洗ったり、化粧水をつけるときに指先に当たるワイヤーは異質だが細く、ちょっと触ったら変形しそうでずっと不安だ。ワイヤーの太さは変わるらしいが、この先2年半ほどこの感じと付き合うことになる。装置は表側についているから舌には触れないのだが、なんとなくずっと金属の味がしている気もする。
 唇が動かしづらいので色々な動きを試してみる。上下の唇を内側に巻き込むのが一番困難なのでマ行が発音しづらい。口笛を吹いてみたら、これはむしろ音がはっきり安定するような気がした。吹いたのは「プラスティック・ラヴ」で選曲に自分で驚いた。
 電話で打ち合わせをしているときに「蚊を潰す」と言ったら「顔を潰す?!」と聞き返されてワイヤーのせいにしたが、それはもともとの滑舌のせいかもしれない。気圧が不安定なので頭が重く、対抗しようと長めに運動したら驚くほどの汗が出て、軽く下痢をした。

淹れてしばらく忘れていたよく眠れるらしいお茶

不確定日記(赤い水分)

午前中に赤紫蘇を塩で揉んだ。笊に2杯ほどもあった葉は乾かしてまとめると片手で掴めるほどになる。塩をまぶしてぎゅうぎゅう押すと泡立った青紫のアクがたくさん出る。渾身の力で絞ったが、私はぎゅっと絞ったりきちっと縛ったりが苦手なので、アクは出し切れていないかもしれないなと思いながら赤黒い葉の塊に梅から出た酢をかけると汁は透明な赤に染まる。それらをすべて梅の容器に入れ、重石と蓋をして梅雨明けを待つ。今日は雨は降っていなかった。

 午後、二週間ぶり二度目の抜歯の予定が入っているので、部屋をなるべく清潔にした。少し先の自分が不快にならないようにしよう、と思えるようになったのはわりと最近になってからだ。買い替えた掃除機はコードレスで軽いが、排気音は威勢がいい。音だけ聞くと吹き飛ばしているみたいだけれどゴミを吸い込んでいる。シーツ一式も洗濯した。
 二度目だから、やはりちょっと慣れている。歯医者からの説明も前回より簡単だ。前回は右側の上下で今回は左側。歯科医師は右側にいるので、左側の歯を抜くときには私の胸の上を医師の体が横切る形になり、視界が狭まって前回よりも不安感が少なかった。それでも麻酔注射の後、自分の鼓動が速くなっていることに気づいた。抜歯自体は前回同様あっけなかった。「もうわかっているよね」というお互いの油断からか、今回は抜いた歯を貰って帰るのを忘れた。抜いた歯には両方とも銀の詰め物があった。
 スーパーマーケットに寄って豆腐、ヨーグルト、アボカド、ジャガイモ、アイスクリーム、鶏ひき肉、シュークリームを買って帰る。柔らかい食べ物は全体的に白くてもやっとしている。帰宅してマスクを取ったら口の端に血が垂れている。麻酔が効いているので感覚はない。怪物感があって渋いな、と思ったが人に見せたい姿でもなかった。前回より少し血が止まりづらい感じがあり、ずっと口の中に鉄分の味がしている。梅干の容器を開けてみたら、梅酢は思ったよりも激しく赤く色づいていた。夕方ごろ押されるような痛みを感じて薬を飲んだ。

もうおいしそう

不確定日記(抜けと埋め)

抜歯痕はまだ赤黒くプルプルしているものの、安定してきた。私の歯はもともと右側が特に乱杭歯で突き出た八重歯が唇を押し上げるのでそこから息が漏れるのだが、近辺にさらに2つ余計に穴が空いたのでどうもスカスカして顔の右下がドットの抜けたモザイク画のように思える。そこからもっと崩れていくのではないかという気がして慎重に動く。台所の蛍光灯が切れたのでホームセンターまで買いに行ってついでに漬物石を見たが、今の自分が4キロの石を抱えて歩けるかどうか不安になりやめた。公園を通り抜けると「考える人」のレプリカに野球帽が被せてあり、以前そこで見た野球帽をかぶった人がいなかった。たくさんの鳩は変わらずいた。漬物石を買わなかったので食材が買える。今容易においしく食べられるものを考えるのはゲームのようで面白い。豆腐と鶏ひき肉、卵とバナナ、薄力粉を買い、帰ってから花巻を作る。粉とイーストを発酵させている間に掃除をした。始終歯の隙間のことを考えているので部屋も隙間と物、というふうに見えてきてなんとなくハンガーラックと壁の隙間を探ったら捨てるかどうか迷ってそのままにした服が出てきたので引き抜いて捨てた。手を洗って花巻の形を作る。発酵生地を触るのはとても気持ちがいい。ふつふつとふくらんだ生地の空気を優しく叩いて抜いてから綿棒で伸ばし、油を塗って巻き込んでいく。どうやら柔らかく流動的なものに飢えていたようだった。二次発酵してから蒸し上がった花巻は思ったよりふくらんでだらしない形をしており、温かく良いにおいで、立ったまま3つ食べた。一度だけ間違えて穴の部分で噛み付いて、ない歯がふかふかの生地で満たされた。買ってきた蛍光灯は間違ったサイズのものだったので、夕方になると台所は暗くなった。

フリー素材みたいだなと思った看板

不確定日記(抜歯のさみしさ)

右側の歯を上下二本抜いた。麻酔をした後はあっけないほど早く、歯科医がペンチのようなもので掴んでぐっと力を入れたと思ったらスポッと抜ける。歯というのは歯茎の骨に刺さっているだけのものなのだという感じがする。歯科医も助手も私より年上らしき女性で、落ち着いて堂々としていた。止血のためにガーゼをギュッと噛んでいる時に「持って帰る?」と訊かれたので深く頷く。「臭くなるから気が済んだらまあ…捨ててね」と言われてなんとも心許なくなる。歯列矯正をすることに決めてからずっと抜歯をすることに緊張していて、それは寂しさだったのだと持ち帰った歯を家で煮沸消毒している間に自覚した。手鍋からキッチンペーパーの上に私だったことのある不格好な二本が転げ出た。麻酔が取れてきても傷は一向に痛まず、そのことが寂しさをさらに強くするような気がした。腹が減った。歯科助手から絶対にうがいだけはしてはならない、と言い含められている。抜歯後に溜まった血液が固まって傷を保護するのだそうで、それを洗い流してはいけないのだ。うがいはもちろん、そのあたりを絶対に触ってはいけないという気がして、チーカマを左側だけにそっと差し込んで食べた。チーカマはこんな時にも便利なのだと知った。おかゆを炊いたが玄米だったので粒が残って、むしろ傷跡に落ちていくようで気が気ではなかった。顔を左側に倒してそろりそろりとスプーンを口の奥まで入れた。二週間後に今度は左側の二本を抜く。

明日のために食べやすそうなガスパチョと蒸しパンを作った